昭和46年09月21日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心は容易いものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
御神訓に神は吾が本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じこと、神は吾が本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じこと、ここのところが本当に分らせて」もらう、胸に入れさせてもろうたら、確かに信心は容易いものだと思いますね。神様と私共の関係というものは、ただ私共が困った時に頼むとかお願いするとかそれが神様だと言う様な、そういう観念が在りますね私共には、ですから何か心配事が出来たり、どうも人間の知恵、力でわからなかったり、迷うたりそういう時に神様。
信心とそういう観念が抜け切らない所に信心が難しいことになる。頼むからには、頼む姿勢を以てせなければならぬ、お願いするからには朝早起きもせんなんならんし、またお供えもせなければならないし、やはり難しい事です、ところが神は吾が本体の親ぞとお願いするときだけの神様ではない、頼むことが信心ではない、いわゆる何事にも信心になれよとおっしゃる親と子の関係を思うてみたらよい、自分の都合の良か時だけは親、都合の悪い時には親でも子でもないというようなことは有りませんよね。
都合の良かとき親なら、また都合の悪い時にはなるほど親じゃなあ、子ぢゃなと思わせて頂く程しに密なもの、または切なるものになってくるでしょう、だから神様と私共の間というものが、そこのところがわからせてもらう、神は吾が本体の親である、いわゆる事実がそうなのですけれども、それを、知らなかったらこの世にそうした親のあることも、知らずに一生を終わる人もある。
いやおかげを頂いて、御神縁を頂いて、金光大神のお取次ぎによって、天地金乃神様を拝ませて頂くようになってでもやはり金光さまちゃありがたい、御利益を頂いて下さる、あらたかな神様だという程度にわかつたら、どうでしょう、そういう人が信心しよっても多い、神は我が本体の親、信心が容易うなる。親子の関係、もう親とつきおうていかんならんとは骨が折れるということはないでしようが、親でも又同じ事、子供と付き合うて行くのは骨が折れると言う事は無い。
坦々として当たり前のことが当たり前になされて行くだけのこと、それが義理の親であつたり、または、嫁と姑といった意味だけの上の親だから義理があるとか、そのいろいろな問題が起きてくるわけです。そこで嫁と姑の関係がスムーズにいっておるというか、有難い関係になっていっておるところでは、もう嫁とはおもうとらんもの、もう自分の息子を通して、自分の娘と思うとる、嫁ちや思うとらんもの、そういう関係が、そこに一つの縁というものが生まれて、その縁からいわば感じるものがです。
それこそ世の中にどれほど、沢山の男性があり、女性が有る中にです。本当に親よ子よといわれ、または家内よ、主人よと、こういうほどしの縁というものが、そこに生じてその縁を思うたらこれは嫁、他所からもろうたと言う様な、考え方は段々無くなっていわゆる、自分の娘としか感じぬ、又自分の親としか思わんと言う様にです。密なるものが生まれてくるところに嫁姑の仲というものは、それこそ水も漏らさぬ仲になつてくるのである。別れれば他人じゃがと言う様な考え方はない。
子供でも、子供の不行き届きと思うところは親の不行き届きと思う様に、嫁の不行き届きのところは、姑親の不行き届きと言う様な頂き方ができたら、もうきれようにもきれようがないですから、私共と神様の仲でもそうです。頼むときだけの神様と言うた様な事で、おかげを頼んでもおかげを受けられない、頼んだばってんおかげを受けきらじゃつた、というて又他に親を探すと言う事は、なかろうけれども、又、他の神様やあちらの仏様やと迷うようなことにすらなってくる。
大体そげな事があってよかろう筈がない、神はわが本体の親と言う事が分ったら、そこでいよいよここんところをいうてございますね、三年、五年の信心は迷いやすい、十年と信心が続いたらと仰る。神はわが本体の親と言う様な事がです、三年、五年でわかろうとは思われない、初めの間はただ難儀なことを頼んだ願ったと言う事から縁を生じて、そこから段々お話しを聞けば聞くほどに、親子の情感にも似た者。
また神様も子供を以て合点せよと、親の思いというものを自分が一つ親になってみて合点せよと仰る様に、そういう一つの情というものが繰り返し、おかげのなかに、信心の中に感じさせて頂くようになってから、十年、ようやく神は本当に親神様じゃなあと思うようなおかげが表れて来るようになる。それまでは私は、如何に熱心に信心がでけておるというても、まだ本当のものじゃない、いわゆる、神はわが本体の親ぞというところが、分るところまで信心が進め。
又はそこに信心の修行の焦点が、おかれなければならん、今日は私はあの御神前で、お大師様にお参りをする。昔あの子供のね巡礼というお芝居なんかで見ますと、巡礼おつるが着ているあれは何というでしょうか、衣というますか、おゆずりとかいうですね、両方が赤になって、真ん中が白になって、四国を巡拝して参るあの姿勢ですよ、それを私は上に着ております。
それにいろいろ書いてありますよね字が、あれが中が赤か外が白という普通あれは親のないか片親か、あれは意味があるのですよ、両方に赤があるのは親がない巡礼とかね、両方が白か中か赤なのは両親があるとか、何かそんな、確かあれがありますが、それが両方が白で真ん中が赤というおゆずりを着ておる後ろ姿を頂く、勿論、大師様がおっしやるように、同行二人とあれには同行二人と書いてある、それは一人で巡拝させて頂きょつても、同行二人と書いてある。
これは赤でも白でも同じこと御大師様参りは同行二人、それはもう自分一人でお参りしよるとじやない、巡拝しよるとじやない、いつも大師様がついておつて下さるという意味らしいです。お大師様と二人連れという意味なのです、そのところを頂いて私は今日ここを聞かして頂きました、まあここのところ信心は容易いものじゃがと、まあ日頃どのように頂くかというと、信心の体得というものは、自動車の運転と同じことだと、自動車を運転する動かすと言う事は。
難しい難しいというとるだけでは、一生難しいで終わらにゃならんけれども、本気で自動車学校でも行ってから、免許ども取ろうという気になったら、まあ普通の人であったら誰だって取れるのである。そして自動車の運転のできる人に、自動車は難しいですかと聞いたらいつちよも難しいはなか、平気なもの福岡あたりからこうやつて、久留米あたりからから皆、参って見えます、明日お参りするのに自動車に乗っていかにやならんが難しいことじゃあると、思いなさらんでしよう。
もう自分の手のように、足のように 自動車が心のままに動くでしょうが、それにはやはり稽古せねばいけません、運転免許取らにゃいけません、それこそ自動車運転しとるという意識すらなかくらいにです、自動車運転が出来る、だから私は自動車運転は容易いものじゃと言う事と、信心は容易いものじゃというのと同じことと思うのです。これは自動車運転だけに限ったことぢゃないですよ。
すべての稽古ごというのは同じこと、だから信心の稽古とは、なら自動車運転の免許を取る時の様な気持ちになれば誰だつて、いわば先日の青年教師会の時に、私が神様との対話、私が神様とのお話し会いと言う事に非常に不思議に感じられたらしいけども、誰だって、できるごとなっとるです。私が神様へ申し上げたことは全部神様はみどうし聞きどうしなのである、それに対して神様は返事してござるばってん、こちらの聞く耳もたんからしかたがないと仰る、そう言う事になってくる。
だからこちらが聞く耳を作らせて頂く為の、信心とはどういう信心をさせて貰うたらよいかと言う事に焦点をおいたら確かに稽古も楽しくなってくる。自動車運転でも何んの稽古でも、それが少し自分のものに手についてくる、楽器でもそうです中々難しい、例えば三味線なんか、やはり三味線三年と言う位に難しい。けれども調子が分る様になってくると、楽しゆうなってくる、ところが調子を覚えると言う事がです、こげん簡単なことがどうして分らんじやろうかというごと分らんとですよ。
なら私共のように、それがやれるのですから、ああそれは二の弦が上っとる、三の弦が下がっとるよとすぐわかる。こげん容易いことはない、けれどもわからん人にいうたら、それこそ乱調子である。調子もあわせんなりに、弾きょるからみようないやな音ばっかりしかでらんのですね、だから調子を覚えるまではやはり稽古なのです、自動車運転でもそうでしよう、あぁ自動車に乗り習うたらよかろうというとるだけではです、そんなに自動車の運転が出来るとは思われん。
やはり、そう思うたら稽古をせなきゃならん、自動車学校にも行かなきゃならん信心もそうです。神様と話ができたらどげんよかろうかというとるだけではつまらん、それにはちやんと道がある、金光様の御信心はとにかくお徳を受ける道だといわれておるのですから、それをただ、おかげはおかげ、御利益は御利益と、ただ自動車に乗せて貰う所だけしか頂いとらん。自分で運転しょうとはしない、それでは一生かかったって、やはり運転は難しいものである、信心は難しいものになってくるのです。
そういう意味でいつも頂きますね、だからそれも本当、それも本当というがそうなのです。けど今日は私は信心が容易ものということを、その真中に同行二人と書いて両脇を真赤な布に同行二人と書いて両方に白い、そのおゆずりのそのことを、頂いてです、今日頂かしてもらうたら神は、わが本体の親、信心は親に孝行するも同じことぞやという、神はわが本体の親ぞとわかる、親があると、親がないのじゃない、親があると、しかもそれは私共の心でいつも神様を身近に実感すると言う事。
教祖様の教えておられる中におかげを受けた初めの頃を忘れなければ信心は楽じゃと、それはもう本当に、例えば初めてお参りをした、おかげを頂いたお話を頂いた、その時の事、あぁ神様ちゃ有難いなぁとまだ親とも子とも分らない、けれども神様ちや有難いなあと思うその実感なのです。私は今朝、昨日の総会の事のやらして頂くときから帰らせて頂いて、ここで御祈念させて頂くまでもう神様の微に入り細に渡ってのお働きを思うたら、本当に感動せずにはおられない程しのおかげの中に実感させて頂いた。
、昨日のことを思うたら、昨日のことよりも改めて有難くなってきた。そして昨日気のつかないことまであーあんなところまでお働き頂いとったと、改めて思うです、所謂、昨日よりも有難うなつてきた、私は信心とはこれだと思うですね、私が五十年近く六十年のことをじっと思うてみてです、さあ生まれて六十日振りに火傷をした時のことを思うたらです。それを思うただけでも感動する、過去のあげなことは失敗だった。
あの事はあんなことが無かなら、もちっと楽だろうと言った様な事もあるけれども、段々信心が分らしてもろうたら、神はわが本体の親ぞと言う事が分って来たらです、何十年前の事を思い出しただけでも感動が湧く程に有難い、ほんとにあの時ああ言う事がなかったなら、今日の私は無いものをと思うたら有難うなってくる。過去の全体が生きて来る、その調子でこれからいわゆる未来につながるその事も、こういうおかげの中にあるのだから安心があり、喜びが生まれて来ると言う事になる。
ところが普通の人のの場合は、もうそれこそあようなおかげを頂いておりながら、あの時に無い生命を頂いておりながら、あの時もし合楽の金光様がござらなかったら、家はどうなっていたか分からんと言う様なおかげを頂きながら、段々日にちが経つに従って薄らいでくる、何故かというと根本的なところが分っとらんから、神はわが本体の親ぞということが分っとらんからそうなってくる。
始めこの事を忘れなかったらと、こう仰ってから段々信心しておるうちに、神はわが本体の親ぞが分って来るから、始めの時の御神縁と頂いた時のことから、おかげを受けたが生々しく、いやいよいよ段々深く有難うなって来ると言う事になる。あの時を思うたら例えばどんなに不平不足のある時でも、あん時の事を思うたら不平も無くなりゃ、不足もなくなるそれが本当、だからそこまで行った時にです、成程信心とはみやすいものだと言う事が分って来る。
今日はそういう意味で、信心はみやすいという意味の事を、聞いて頂きましたですね。ひとつ本気でね、私共が信心の稽古を指して頂きますとです、なるほど祖神じゃなぁという節に、いつも行き当たると言うか、感じるいわばチャンスを沢山頂くのです。自分の思うごつなった時だけがおかじゃなくて、思う様にならん時にはです、なるほど神様じゃなぁもしこげんときおかげ下さったなら、こりゃ親神様じゃなかろうかと言う様なことすら感じる時がある。
昨日会場であるとこでも、私しがお話申しましたように、お孫さんが何か買いたいと言うけれども、生憎お金が無かった、二人のお孫さんに十円づつ持たせて「何か買うてこんの」と言うたけれども、十円では何も買うものが無かった、そこでお婆ちゃんが一緒に連れて行って、五円の絵葉書のようなものを二枚づつ買ってやってから、又店の方を歩いて帰るいかんから裏通りを帰って来たとこう言う。
ところが子供がそれをチョコレートの箱だと思うた、あばあちゃんはすぐその時直感した、はぁ親先生がいつも仰る、貧すりゃ鈍すると言うがそげなもんを拾わせよったらと思うて「そんなもんを拾うちゃいかんよ」と言ったら「おばあちゃん中に入っとるよ」と言う、しかもチョコレートのま新しい帯も切ったないやつが二つ落ちていた。私はそのお届を聞かせて頂きながら、本当に親様じゃなぁと思うです。
だから本当の親様ならば、そげな拾うたもんを頂くよりか、お金のおくりあわせどん下さった方が、例えば有難いけれども、それは親なればこそなのですよ、分るでしょうか。今ん人達になら金の自由を与えたらほんなもんにならん、親なればこそ渡しもせんけれども、なら孫たちためには神様が何かの思いを受けて下さるというか、親の情をそこに現しおられるその親神様の思いを感じたら。
そのお取次ぎを指して頂いた私はそういう事に感動したとお話した事でした。ほんとに親神様なればこそだと、神様にこういう心配掛けんで済む様に、ほんとに私がお金には不自由しませんと言う位なおかげを、本当に頂かなければならんと、氏子が感じてくれるように神様がおかげをくださる。例えばお金もある、物もある、だったらもう信心はゆるんでしまう、信心は分らんなりに終わる。
そこんところを分らしたいばっかりの親心である。お金を親に渡さんのも親心なら子供にチョコレート二箱をお渡しになる、これも又親心、そう言うところを繰り返し繰り返し通って始めて、なるほど親様じゃなあおかみさまじゃなあと言う事がが分るのです。神はわが本体の親ぞと言う事が分る、そこから信心がみやすうなってくる訳であります。